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治癒と解放
私は、"ありのままの私として解放されたい"と思いながらも、常に、見えない、気がつけない、何かに捕らえられていました。その微かな痕跡や、尻尾のようなものを掴んでは、都度都度、こうして言語化してきたように思います。

その作業は、決して美しいものではありませんでした。折々の心境を、取り繕わずに綴るこのブログには、その内省の過程がそのまま残っています。私の内にある、情熱、希望、悲しみ、怒り、失望、平生、喜び、そして、愛。今振り返れば、この一つ一つの変遷の中に、"治癒と解放"がありました。

"何かに捕らえられている、その痕跡や尻尾のようなもの"と書きましたが、"痕跡や尻尾"というのは、大なり小なりの心に残った傷のようなもの。"何か"とは、その傷によって学習する、身を守るための思考や行動。

つまり、ここでの"治癒"とは、心についた傷が"治癒"すること。そして"解放"とは、それ以上傷つくまいと、その思考や行動から"解放"されること。

実は、思いがけず、前々回と前回のタイトルを間違えていたのですが(笑)

治癒され解放に至ることには気がついていたつもりですが、解放されることで治癒に至ることもあるなと、まだ思考に落とし込めていないものの、思いがけず気がつかされたような気がしました。
解放され治癒に至る(2)

さて、このブログのタイトルを「治癒と解放」に変更しました。タイトルは、私の心境の変化と共に変えてきました。これまでの変遷はプロフィールの欄に記しています。

今回、タイトルを変えようと思い立ったのは年末から年明けのころでした。これまでのように、私の心境を思うがままに綴るのではなく、私がそうされたように、人の心に寄り添いながら、わかりやすく、丁寧に、丹精を込めて綴りたいと思い至りました。

この心境を、短くしっくりと表す言葉はないものか探ってみましたが、中々「これ」といったものが浮かびませんでした。考えあぐねいて、言葉を外に求めようと思い、愛用している 石井ゆかりさんの手帳(星ダイアリー)を眺めていたところ、「解放」という言葉が目に飛び込んできました。

「解放」、「これだ」と思いました。

「治癒と解放」、これは私にとっての大切なテーマであり、恐らくは、人生の最期に至るまでのテーマでもあるだろうと思います。いわば、私の原点を表す言葉なのです。

初めて、この言葉が出たのは、"何のためにアニメーション作品を作るのか"について、主人と話し合っていた時だったと思います。川喜田二郎さんの「発想法(-創造性開発のために-)」を参考に、2人で作品のテーマになりうる言葉をカードにしました。2人で一つ一つの言葉を吟味しながら、自分たちの思いと照らし合わせながら、カードを整理していき、最後に残ったものが、「治癒」と「解放」でした。

何故、「治癒」と「解放」だったのかは、また別の機会に綴りたいと思いますが、このときこの言葉が残ったことは、当時私が自覚しているよりも、私の人生に深く根ざしていました。それを確かに感じたのは、つい最近といっても過言ではないかもしれませんが、もしかしたら、まだまだ、その深さを測りかねているのかもしれません。

「治癒」だけではなく、「解放」だけでもない。「治癒と解放」これは一連のものだと、私は感じています。

治癒され解放に至る (1)
私は、主人と2人で、アニメーション技術をベースとした映像作品を作っています。

思い立ってから10年以上経ち、未だ一作も完成していないにも関わらず、これは自分の生涯を通じた生業になるのだろうと感じています。

ここに至るまでには、幾度となく紆余曲折がありました。

"行きたい方向はあっち"なのに、"何故かこっちにひっぱられる"というようなことや、"そっちにしか道がない"というようなこと、もしくは"突如道が塞がり、強制的に足止めされてしまう"というようなことです。

遠回りになるとわかっていても、引くに引けないような、避けては通れないような、そういう、明確には説明できないけれど、抗う類のものではない流れの中を、ただただ必死に歩いてきたような気がします。

それが、運命と呼ばれたり、星の巡りと表現されたりする、自力ではどうにもできない、大きなうねりなのだろうと、私は捉えています。


そこに誰もいなくても
宮本浩次って人が歌う様を見てきた。

個人のスケールを遥かに超越してて、超新星爆発したかのような迫力。

残念だけれど、どんなに立派な記録手段を持って丁寧に仕事をしても、あの人の業(ギョウ、ワザ)を正しく記録することは不可能だということを感じたよ。

で、先の震災後始めての熊本でのライブで、彼はどんな様子なんだろうってことは気になってて。

蓋を開けてみたら、一切言及無し。

ただひたすら、徹底的に歌う。

歌う声、音、姿、身体にダイレクトに響く音圧が、いつの間にか心身に纏わり付いてたチリホコリを全て吹き飛ばして、ただのエネルギー体だけになって共鳴していく感覚。

それだけで、何故かどんどん力が湧いてくる。

いついかなるときも、喜怒哀楽の感情の向こうで、静かに思考したり判断したりし続けてる自分自身を、この時ばかりは完全に手放して、身を委ねてた。

恐らく彼は、どこまでも孤独で自立しているから、目の前に大勢の人間がいてもいなくても、そんなこと構っていないんだと思う。

鬼気迫る勢いで歌い、語りかけてくる。媚びない、綺麗事もない。魅了され、沸き立つ観衆に、寧ろ、殺意にも近い、剥き出しの力をぶつけてくる。

世が世なら、この人のために死んでも構わないと思わせてくるほどの、圧倒的なカリスマ性を持ってして、1ミリたりともそれに酔わない。

盛り上がり、沸き立ち、最高潮に向かうほどに、彼は一人、研ぎ澄まされた冷静さを発揮する。

彼が宗教家や政治家じゃなくて本当に良かった。

ただただその時最高の形で音楽を現すことのみに集中してる。彼は一点の濁りなき音楽家で、そこに誰もいなくても音楽を生み出し続けるんだろう。

そんな彼だから、却って安心してその世界に身を委ねられたんだと思う。


私はいつの間にか、自分の生命を燻らせて、生温い退屈な日常に甘んじて生きていたんだと、はっきり感じた。

それでも恥じたり、縋ったりせずにいられるのは、思考と判断と選択だけは譲ったことがないからだと思う。

行動が圧倒的に足りない。

その為の身体が出来てない。

女だ、非力だ、産後だ、なんだ!

そんな言い訳を許して何が最善だ。

くそったれが。

十人十色、多種多様、千差万別、多様性のある世界を希求し、他者を慮って、自分を窒息死させようとしてる。

私が私を全身全霊発揮せずに、どうしてそんな世界が出来上がるってんだ。

本当にくそったれだ。

一世一代、全力注いで、盛大にからぶることにびびってるのかもしれない。

末路に、嘲笑われることが脳裏に散らつく。

どこ向いてやってんだ。

媚びようとする弱い自分!!!

だからいつまでたってもってやつだよ。

くそが。

くそったれが。

くそーーー・・・。


自分の手に負えない、計り知れない、知りようのないほど凄い人間がいるってことが、堪らなく嬉しいよ!

さー、毎日、死ぬまで生きるぜ。
ただいま

 

あかんぼが産まれてから・・・。

 

2016年1月、降ってわいたような展開で、

あかんぼを抱えながらの新しい仕事の準備が始まりました。

5月のスタートを目前に震度7を2回体験し、

一月のブランクを経て6月新しい仕事が始まります。

暮らしを建て直しながら、

仕事を質を追求し続けて、あっという間に半年が経ちました。

 

なんだか、生命を削りながら走り抜けた、一年でした。

 

 

振り返れば私の旅は、 2011年の3月に始まっていたのだろうと思います。

 

生と死を思い、善と悪の姿を見つめ、

最終的にはこの世界の有り様と同じく全きものなんだと、

そう腑に落ちるまでに、

暮らしも私の内面と共に変容し、

世界は様々な姿で、沢山の示唆を与えてくれました。

 

 

私の旅は、2011年の3月に始まりました。

 

だけど実は、それよりずっと前、

2003年の3月でもなく、

2002年の4月でもなく、

1983年の9月に始まっていたのです。

 

誰から教えられる訳でなく、

そうしなさいと言われる訳でなく、

自然の摂理と同じくして、私の旅は始まっていたのです。

 

その旅の間中、私は私を労ることは無かったように思います。

私は宿命的に見えて独善的に、

私以外の大切なものの為に生き続けて来ました。

 

それが、人の持つ独善に対する、私の人生を賭した戦いで、

殉死するまでが筋書きには書かれていました。

 

その筋書きの改稿を求められたのが、2003年の3月でした。

私の脚本にあった筋は全て覆され、

結末まで考えなおさねばならなくなりました。

 

そして2015年の7月、 改稿した原稿の曖昧だった部分が更に具体化し、

脚本の大筋は出来上がりました。

 

しかしここに来て、その脚本を演じきるためには、

私自身の内面を省みる必要性が出てきました。

 

筋書きは変わっているにも関わらず、

演者の演じ方は初稿の時のままだったのです。

 

演じ方を変えるには、 蓋をして久しく、

蓋だということすら分からなくなっていたものを開き、

その隠されたものを掬い出し、声を掛けてやる必要がありました。

 

 

さてつまり、これから先は、 何かのアンチテーゼのために戦うことをやめるということ。

またそれに伴い、 勝手に背負っていた肩の荷を下ろすということでもあり、

私は私自身の声にも他の人たちと等しく、 丁寧に耳を傾けるということでもあります。

 

幼い頃から抱えてきた哀しみや憤りは、

この世界を深く知ることとともに溶けて無くなり、

生命を育む源として湧き井出てきました。

 

私の内から湧くものは、世界中の哀しみを前にして、

ほんの一滴にすらならないでしょう。

 

けれども、喜びを分かち合いながら、

生命を慈しむこと日々の中で、その一滴は大河の一滴となり、

いつかこの世界を包み込むでしょう。

 

 

暮らしの中身は、相変わらず。

心動くことを、笑いと共に行っていくだけです。

そしてそれは平面の世界に彩り豊かな生命を与えてくれることと思います。

 

 

 

 

 

今年も何卒よろしくお願いします^^☆
昨年はひたすら内省、ひたすら伝えようとしてみる、と
ともすると独りよがりになりかねないことに試みた一年でした。

たくさん話を聞いてもらい、気持ちや思いを伝えてもらい、
思いがけない発見があちこちにきらめくような日々でした。

根気よく、温かく心を開いて付き合って下さり、
本当に本当にありがとうございました。


今年は、何事もただただ楽しく。
自分がというのはもちろんですが、
周りにいてくれるみなさんにも楽しく感じてもらえるような、
幼少より備わっているらしいエンターテイナー精神を発揮して、
いろいろな形にしていきたいと思います。
たくさんの笑顔の日々が地球を包み込む日が来るんだと思います。

今年も何卒よろしくお願い致します!





 
可能性だけは
あれから2ヶ月。
はじめたときはどれくらい時間がいるのか分からなかったけれど、
試してみれば、たったの2ヶ月。
この2ヶ月でまた自分は随分と変わった。


この2年では、自分の思考がどんどんシビアになっていって、
あったかい感情の部分、つまり愛の部分が
消えるんじゃないか、渇くんじゃないかって、
感じたのは私だけじゃないと思うけれども、
突き詰め切った先に、
なかなかどうして、たまらなく強い想いが残った。


ごめんけど、正直言えば、
素直にラブアンドピースを掲げているよりも、
揺るぎないものだと思う。


一通り考えつくしたと思う。
人間について、世界について、
善悪について、愛について…、
それで、
あちこちで掲げられている輝かしいものなんて妄想か幻想だけど、
それでも、本当に何かがいるんじゃないかって思うくらいの、
心震わせる奇跡的な輝きはあるんだって、わかったよ。


今、素朴に暮らしているこの環境、善良な人々、
片手では殺し片手では生かすことを望みながら回してる、
この”狂っていない”世界を直視したから、
その輝きに涙が出るんだと思う。


そういう意味では相変わらずというか、
変わっていないというか、
私は昔っから私のまんまだと思うのは、
明日に絶望していないってことだ。


絶望に値する、というか、本当に絶望的なんだけど、
でもなんだかそれはそれで有るべき姿だと納得している。
人類の、世界はそんなもんだろうと。


でもなんか、楽しい。
そんなもんであることが成立するという事は、
そんなもんでないということが成立するという事なんだよ。


可能性だけは0に出来ない。
いいことにも、わるいことにも。
それがたまらなく嬉しい。


多分、天文学的に小さな確率のことが積み重なって生まれた

だからなんだろうね。


これ以上は、考えない。
本当に、”考え過ぎ”になっちゃうから。
言語やそれに頼る思考では計り知れないものを
感じてみようと思う。


どこまでもいくよ。


























帰る。
私は
とても理性的かつ臆病者でありますので
自分の思考を不出来なまま
洗いざらい表せないのであります。
日々そうやって、
理性的に
臆病風に吹かれておりますと
縮こまった
意気地のない
猫のようにみすぼらしく
無様になっていく。
もう30になるというのに
この意気地のなさで、
この様な道を生きていこうと
しているのかと思うと、
情けなくて
つまらなくて
どうしようもない。
馬鹿のようにあけっぴろげで
かつ、他人を傷つけることのない、
そういう裏も表もなくていい馬鹿の様になりたいので
しばらく、私はそんな私を
殺して、みようと思うのであります。
出来るだけ、私という、私というものに
縛りつける社会的なもの、
名前やあだ名やそんなものから逃げて、
私を私と規定するものごとから
極力消えて、
私とは何か、
パントマイムをしない、道化と化さないままの私とは何か、
そこをまず見ないことには、
これから年老いていく人生、
みすぼらしくない様に生きていくことが出来ない。
もういやだ。自分で自分の頬を叩いて、
去勢していい子に非難されない様に
傷つけない様に自分で自分を殺していく。
一見喜ばれる。愛される。
だけどもういやだ。もういい。
そうやってどんどん自分を殺していく。
もういいだろう。もういい。
私は、私の元へ帰る。帰るよ。帰ろう。
帰ろう。
友達がいなかった私に。
帰ろう。
なんで一人なのかわかんなかった私に。
帰ろう。
ただ一人だった私に。
帰ろう。

帰ろう。





人間的なもの、から、ただいま〜する
前回の話を書いてみて、底にたどり着いたというか、パキッと方向転換。



概ね、うまくいかないことって、”人間的なもの”が原因になるのかなって。

嫉妬、劣等感、優越感、思い込み、自惚れ、意地、

保身、怯え、哀しみ、トラウマ的感情、後暗い感情・・・。



ちょうど一年前、とりあえず東京を出ようと決めて、

なりふり構わず(といっても幸いにも納得出来ながら)やってくるなかで、

近年では珍しいくらいにその人間的なものを次から次へ目の当たりにした気がします。

振り返ると学生時代のようで笑ってしまう。



東京に出てから、自分の中にある人間的なもののしっぽを掴んでは是正するうち、

(再会やwebでのも含めて)出会う人たちがそういうものを

ちゃんと自分のこととして向き合っている人たちになっていっていたので、

人間的なものがすごく遠い存在になっていました。



産まれて上京するまで、ほぼ人間的なものだけだった状況を思い出し

そういえばそうだった〜とちょっと驚き。

ちょうど、「まだ煙草吸う人いるんだ!」という驚きに似ています。



原発問題でもなんでも責める側、責められる側、どちらでもない側、いろいろ、

根幹を見つめれば人間的なものなのかな〜って。

学歴とか、役職とか、それを=立派、尊敬に値する、勝ち組?、ってまやかしを外して、

一人の人としてどういう状況か、どう動くか見ていると、

はったりで乗り切ろうとしているなとか、

怯えているんだなとか、満たしたい欲求があるんだなとか、そういう風に感じます。



自分はというと、こちらに来るきっかけになった研修先を離れました。

ちょっとだけ怯えがあったかな。

学んでいること、作業も含めて、意義深いし楽しいし、

ついでに、子どもの将来とか、生活の保障とか、そういうのがちらつくと弱い(笑)

ただ、引換えにしているものごと、

例えば、子どもが安心して過ごせる環境、発言や行動の自由、

自分だけのものじゃなくなってきた夢に新たに重なってきた夢・・・、

それはとりあえず置いといて、ってした後はどうなるんだろう、と。



あと、そんな保証とか現状維持とかそういうことのために、

始めて出会ったときの気持ち、尊敬や、興味深さ、一緒に時間を過ごす楽しさ、

が霞んでしまうのも嫌でした。

前触れはあったけれども急だったから申し訳ない気持ちもあるのですが、

(美しい大豊作畑を夢に見ちゃっていたので、笑)

価値観やこうしたい、を並べた時にそれが噛み合わなかったとして、

自分の保身のために、相手も自分も欺きたくない気持ち。

やっとこさ言葉になって来ているところで。



久しぶりに、そういう心境になれるところまで戻って来ました。

ようやく自分の復興が果たせつつあるのかな。



で、最初の話に戻ると、うまくいかないことの原因を外に求めたくなるというか、

求めやすいというか、本当に外にあるように見えるというか、なんですが、

案外、自分の中を探ってみてどうにかするとどうにかなっちゃうのかなって。

多分、自分との作用反作用で起きていることだと思ったんですね。

多分ね、そうだと思う。多分。



全部自分次第で、つまり自由なんだから、

それで生まれる幸も不幸もすべて引き受けていこうという

そんな気持ちです。





ねこ



あ、ちなみに”人間的なもの”はめっちゃ受け売り(笑)

お話をした方がそう言ってて、たしかに〜〜って思ったのでした。

 
マイナーチェンジ
この一ヶ月、まーーーーーったく使い物にならない、脳みそ。

思考が散らかってます。

・・・いや、まとまってる時間が短すぎるのかな。

10分とか、15分とか。

ブログを書くのはだいたい30分くらいは使っちゃうので、

書いてる間に散らかります〜。

運動不足??


このブログの路線をマイナーチェンジして、「stir the waters」としてはじめてみます。

この前ふと思考するキッカケや視点をもらえるのって

ありがたいな〜って思ったんです。

自分の価値観や視点を揺さぶられるのが好きで。

一石を投じられるってありがたいなと。

それで、投じられたあとに考えたことをここに記しているんです。

そういう方向でしばしはやってみます。



穏やかな癒しは、別の形に任せます。

(ところで、我が家の梅が満開でした)

うめ